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思いがけないプレゼント
井元 奈穂子さん
その歯医者さんは、昔から何も変わらない。待合室のグリーンのカーペット、少し色褪せた壁紙、先生の腕の良さと、受付と診察台を行ったり来たりする歯科助手のアキコさん。
母に手を引かれ、初めてそこを訪れたのは、いくつの時だっただろう。両親も、祖父母も、叔母たちも、一族でお世話になっている。先生に対する信頼は、その腕だけでなく、最近の病院にありがちな、患者の負担になる過剰な検査はせず、たとえ大晦日でも、患者さんのために病院に駆けつけてくれる、そんな人間的な素晴らしさから生まれている。
久しぶりに歯が痛くなったのは、娘を産んで1年ほど経った頃だった。子どもの頃聞いた、あの独特の嫌な音が蘇り、気が重くなった私は、他の歯医者に浮気した。全く痛くない麻酔をしてくれるという口コミに引かれたからだ。最新の設備が揃ったオシャレなその病院では、口コミ通り、全く痛みを感じずに治療を終えた。しかししばらく経つと、治療前以上の痛みに襲われ、あの小さな歯医者さんに帰ってきた。
少しシワが増えたものの、相変わらず上品で優しい先生の顔を見て、心の中で浮気を謝った。そして、すっかり痛みから解放され、やっぱりここでないといけないと再確認した。 つい最近のこと、5歳になった娘が「この歯が痛いねん」と、上の前歯を指さしながら訴えてきた。虫歯にならないよう、歯磨きもきっちりしていたし、アメやガムもまだ食べさせていなかったので、けっこうショックだった。でも見ると、確かに2本の前歯には、うっすらと茶色い筋が入っている。親として申し訳なく思いながら、予約の電話をかけた。
待合室では、これから泣き叫ぶであろう娘を、押さえつけなければならないことを想像すると、溜め息が出た。名前が呼ばれ、診察室に入りながら、私は、娘以上に覚悟を決めた。
先生は歯を見るなり、「虫歯違うよこれ、お茶の色素や」と笑いながら私を見た。「でも痛がるんです」と私が言うと、先生はその前歯を少し触ってから、もう一度、上品な顔で笑った。「大人の歯が下から押してきてるわ、ほら、少しグラグラしてる」
考えてみれば、5歳といえば、最初の歯が抜けるくらいの歳だ。しかし、虫歯しか頭になかった私は、ホッとするやら嬉しいやらで、思わず声を出して笑った。娘が生まれて、初めての子育ては分からないことだらけで、5年なんてあっという間だった。いつの間にか、自分の子どもが、歯が抜ける年になっていたなんて、驚きであり、感慨深い。先生は、優しい眼差しで私と娘を見つめ、「歯磨きしっかりね」と言ってくれた。
歯医者さんに行って、こんなにほっこりした気持ちで出て来られるなんて、思ってもみなかった。先生、どうかいつまでもお元気でいらしてくださいね。